端場坊は、鎌倉時代の武士であり、日蓮聖人の主治医でもあった四條金吾頼基公によって開かれたお寺です。弘安3年(1280)、日蓮聖人のお側近くでお給仕するために庵を構えたのが始まりであり、現在の身延山支院の中では最も古く歴史ある坊の一つになります。当坊は明治7年に真浄坊を合併し、同10年には火災にあっていますが同年中に再建。現在の本堂(四條殿)等は平成2年に建て直されたものです。堂内には日蓮聖人・本社等寸七面大明神・四條金吾頼基公御夫妻を祀っており、頼基公が医師であったことから、病気平癒の功徳があると伝えられております。また山門も、かつて医師の家で多く用いられた薬医門となっています。身延山は多くの坊が移転や合併を繰り返しておりますが、当坊は一度も移転記録がなく、往古の場所をそのままに今日まで法灯を繋いでいます。

四條金吾頼基公は日蓮聖人の四大檀越の一人で、鎌倉幕府、北条氏一門の江馬氏に仕えておりました。
伝承では建長年間(1250年前後)日蓮聖人が鎌倉で布教をされていた頃の入信といわれ、日蓮聖人の庵室と、頼基公の館との距離はわずか一里程で、盛んな往来があったと伝えられています。
竜口法難の時には「法華経の御故に聖人とをなじく腹を切らん」と殉死の覚悟を示し、日蓮聖人が佐渡へ御配流となられた時も、頼基公自身海を渡って尋ねられ、使者を使わしては供養の品々を送り、日蓮聖人の身辺を案じました。
また、医術にも精通しており、日蓮聖人の信頼もことに篤く、「身のことは一切あなたにお委せし、他の薬は用いない」とまで仰せられました。
日蓮聖人のおられた御草庵の地より離れ、東谷の最奥に建てられた端場坊を思うに、他の方々よりも一歩も二歩も下がる謙虚な人柄が偲ばれます。
妻は日眼女といい、夫婦とも日蓮聖人を親の如く慕い、生活内外全ての相談まで常に御教示を仰いでいました。
日蓮聖人もまた夫婦の人となりを愛して、子の月満御前の名前も命名され、頼基公へのお手紙は約40編にも及び、「一期の大事」といい「かたみ」ともいわれた『開目抄』をも託されていました。
日蓮聖人御入滅(1282)の後には御廟を守り続け、晩年は甲斐内船(山梨県南部町)の領地に隠居し、正安二年(1300)67歳で没しました。
鎌倉の屋敷跡は収玄寺、内船での屋敷跡は内船寺と、それぞれ寺院となっています。

歴 史